
仲むつまじく、お店とともに。
ちょうどいいリズムが紡ぐ新たな縁
時代小説『のぼうの城』の舞台で知られる忍城は、勇壮な三階櫓が行田の歴史を伝える。その近くに「食事処みずしろ」はある。2 階建ての民家のような佇まい。真新しい外観だが、足を踏み入れると、親戚の家に来たような安心感に包まれる。ここは、料理の腕と持ち前の明るさで数々の飲食店を営んできた夫妻の新天地なのだ。
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夫:まさしさん
静岡県生まれ。74 才。食事処みずしろの仕入れ・調理担当。18 才で割烹修行をはじめ料理の道へ。これまでに各地で6店舗を経営する。 -
妻:ひさえさん
埼玉県生まれ。66 才。食事処みずしろの接客、調理補助担当。お客さんと自然に会話できる天性の才を持つ。韓流ドラマにハマり中。
写真:tsukao
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家と店
-平山さんちの華麗なる変遷-
修業時代と自分のお店
お二人のことを伺ってきて感じるのは、お店と一蓮托生で歩んできた人生なんだなと。
まさしそう思います。
どんな人生をお二人が歩んできたのか。最後に聞かせてもらえますか。マスター、ご出身は?
まさし僕はね、静岡県の伊豆、下田っていう半島の南端にあるところで育ってます。
ひさえちなみに生まれは、南伊豆の弓ヶ浜のあたりです。
とても美しい場所ですよね。
まさし実家は床屋で、店舗が手前で奥が住まいでした。昔は平屋が多かったので。いまは兄夫婦が継いでます。
小さい頃からお店付きの住宅で育ったんですね。ご兄弟は、お兄さんだけ?
まさし6歳離れた兄と二人です。床屋は、父と母が二人で切り盛りしてました。
お店をやろうと思ったのは、ご両親の影響ですか?
まさしあまりそう思ったことはないです。手伝いも全然しなかったですし。
料理の道に行こうと思ったきっかけは、何だったんですか?
ひさえ 私が聞いたのは、最初はホテルのフロントに勤めてたんですが、厨房を覗いてたら興味が出てきたって。
まさしそうそう。厨房に遊びに行って、こういうのもいいなと。17か18の頃ですね。僕、高校を途中で辞めちゃって、下田のホテルで働いていたんです。
なるほど。
まさしそのホテルの社長がツテで世話をしてくれて、東京赤坂の割烹で修行を始めたんです。
思い切りいいですね。
まさし若い頃から、何かを始めることに抵抗はなかったですね。それより、人に付いて何かするのが好きじゃなかった。
割烹に入るまで、料理は全くの未経験?
まさしええ、全然。店の中に寮があって、当時4人くらいだったかな。共同部屋で寝食を共にしました。ご飯は、朝昼晩まかないでしたね。
赤坂の割烹、厳しかったでしょうね。
まさしはい。規模も大きくて、お座敷もあって。朝丘雪路さんとか、堺正章さんとか、ずいぶん有名人も来てましたね。
そこで修行した後、独立された?
まさし友人が浦和で小料理店を出すから一緒にやらないかって誘われて、彼と一緒に始めたんです。でも徐々に、自分でやりたい思いが強くなって、川口で貸店舗を見つけて商売を始めたんです。
初めての自分の店ですね。店名は??
まさし「磯料理下田」です。川口は盛り場なので、ただのお刺し身じゃなくて、サザエとか、はまぐりとか、しったか(小さい巻き貝)とか、伊勢海老とかも。正に磯料理を出してました。
居酒屋みたいな感じですかね?
まさしそうですね。昼間も定食をやってましたが、まあ夜が中心のお店ですね。
その頃のお住まいは?
まさし店の裏に住んでいました。
やっぱり、お店と家は一緒なんですね。
出会いと新居の下田
磯料理下田は、何年やっていたんですか?
まさし8年間くらいですね。
奥さんはこのお店、知ってます?
ひさえ私はこの店のお客です。ここで知り合ったので。
そうなんですね!
ひさえ珍しいお店だなって思ってました。川口で、下田の料理を食べられるお店ってなかったので。
奥さんは、川口が地元なんですか?
ひさえそうです。母方の祖父(写真)が川口で工務店をやっていて、父が婿養子。大きな家に、祖父母と同居していました。大家族の5人兄妹。私がバリバリの長女です。
やっぱり、ご自宅で商売をされていたんですね。
ひさえええ。家にちっちゃい事務所があって、色んな職人さんが出入りしてましたね。
高校も川口ですか?
ひさえ そうです。高校を卒業して、東京の大企業に就職したんです。でもこだわって就いた仕事じゃなかったので、2年半で辞めちゃいました。
じゃあその頃、お二人が出会ったんですね。
ひさえマスターの店は、もともと父が通っていたんです。
マスターの第一印象って覚えてますか?
ひさえすごくよく働く人だなって。そのうち、なんか知らないけど気づいたらお付き合いしてました(笑)。付き合ってくださいって言われた記憶もないしね!
言わなかったんですか?
まさし言わなかったんでしょうね(笑)。
ひさえ一緒に住み始めて、それから下田に帰ることになったんです。
まさし僕の母が倒れてしまって。18から家を出たきり母親と過ごせてなかったので、帰ろうって思って。
それで「磯料理下田」は閉めたんですね。
まさしええ。下田で今度は、喫茶と焼肉の店を始めました。
ひさえ昼は喫茶、夜は焼肉。スナックみたいな、なんでもありな感じのお店です。
まさし本格的な喫茶店じゃなくて、軽食も、焼肉定食とか、ポークソテーとか、家庭的な和洋食。で、夜になったらガス台置いて焼肉ですね。
はははっ、凄いお店ですね。ちなみに店名は?
まさし「寿楽(じゅらく)」です。妻の寿江からとって。
いいですね。住まいとお店は一緒でした?
まさしいえ、それができなくて、歩いてすぐのところにアパートを借りてました。
ひさえそうそう。長男もここで生まれてます。ザ・昭和って感じの、木造アパートでしたね。
楽しそうなお店ですけど、なぜ閉めちゃったんですか?
まさしやっぱり、ちゃんと包丁を使う商売が良かったんですよね。
ひさえ私も、知り合いがいない土地だったし、お母さんも元気になられたので、そろそろ違うことやりたいなっていうのもありました。
たどり着いた場所
そこから、埼玉ですか?
まさしええ。川口で貸店舗を見つけて、その2軒隣のアパートを借りました。ここで娘が生まれてます。「寿正船(じゅしょうせん)」っていう店名で、6年くらいやりましたね。
ひさえ寿に、正しい船で、「寿正船」です。
お互いの名前からとったんですね。
ひさえラブラブだったね(笑)。
どんなお店だったんですか?
まさし主に定食をやってましたね。大家さんが飲食店をやってた居抜き物件。店の前が公園だったので、家族連れがよく来てくれたんです。ラーメンとか酢豚とか、中華もやりました。
だんだん、「みずしろ」っぽくなってきましたね。
ひさえウナギとか、ちょっと高級なものもやってたんですけど、庶民的な定食が欲しいっていう声が多かったので、少しずつ変えていきました。お客さんが欲しいもので、できるものは何でも。
それは、愛されそうなお店ですね。
まさしええ、おかげさまで。
ひさえ会社の寮の食事として、食べに来てくださった方々もいました。会社から帰ってくると、うちに立ち寄るみたいな(笑)。ほんとにおかげさまで、羽生に家を買えるくらいの蓄えができたんです。
それで「一龍」なんですね。でも、それだけ愛されていたのに、閉めちゃったのは、何故ですか?
ひさえそれは、住まいとお店が一緒っていうのが理想だったからですね。「一龍」は、中古でしたけど、新しくて、いい物件でした。
結局、お店と住まいが一緒っていうところに尽きるんですね。でもなんでまた、中華料理に転身されたんですか?
まさしそれがね、その家の前の人が中華料理をやってた居抜き物件で、何から何まで全部置いていってくれたんです。だからそのまま買っちゃって、中華料理にしちゃったんです。
ひさえ電話番号も、なんと名前もそのまま(笑)。
え、名前も? だから、奥さんの名前が入ってないんですね。
ひさえお客さんからしたら、お店がちょっと休んでいる間に、中の人間が変わってたから、「娘さん夫婦?」って聞かれたりしました。
まさし料理の作り方も、前の人に教えてもらったんです。本当にすてきなご夫婦で、レシピのすべてを教えてくれて、道具も全部置いて行ってくれました。
まさに「縁」ですね。
まさし本当に色んなところに住んだ人生でしたよ。
波乱万丈ですよね。
ひさえまあ、なんとかなるかなって思ってやってきました。でも、行田でまた店を開いたときは、子どもの方がびっくりしてましたね。なんで行田なの? 羽生は離れがたくないの? もうゆっくりすれば?って。
ごもっともですね(笑)
ひさえでも私たちからしたら、それよりも現実を見てるんです。家の値段とか広さとか、息子も娘もこの場所ならアクセスいいな、とかね。
なるほど。お二人らしいです。
ひさえでも子どもたちも今は「思うようにやればいいよ」って応援してくれてます。
心強いですね。また今度、食べに来ます。
まさしぜひまた、いらしてください。
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